開拓者魂

 私は那須塩原市(旧西那須野町)の三区町出身である。

 そこは那須野が原開拓の村で、私は明治時代に入植した先々代の末裔に当たる。そこの入植者の多くははるばる長野から来たと聞いているが、先々代はごく近隣の現矢板市の片岡からで、生粋の入植者とはちょっと違っていたようだ。

というのは、先々代はとある神社の神主の長男で後を継ぐわけだったが、妻と姑の折り合いが悪く、先々代は妻のために神職を弟に譲って、開拓の村に入植する道を選んだという。着の身着のままの入植者とは違って、いくばくかの財とともに入植したために、水車小屋を持ち、山栗を拾って町でそれを売り帰りにその日の米を買って帰るというような貧しい村人もいたというが、先々代の家族はそれなりの生活が出来たようだった。

この先々代は村の中央に位置する光尊寺という寺の建立に尽力、ために実家のお墓は墓所真ん中奥の一等地を与えられたという。寺には大きな銀杏の樹があって、子供の頃、報恩講という秋に行われる寺の行事に連れられていかれたとき、鐘が突かれるたびにゴーンというその響きの空気振動によって、銀杏の実つまりギンナンがバラバラと落ちたことがいまだに印象深く脳裏に刻み込まれている。

先々代の息子つまり私にとっての祖父は村会議員も務め、困っている人がいると、自分が困っても物を与えてしまうような豪快な性格だったという。母はその祖父に「デビ」と呼ばれたという。デビとは当地では普通額が出っ張っているという侮蔑と揶揄いの言葉なのだが、祖父は息子の嫁に親しみを込めた愛称として使ったのかもしれない。母はデビと呼ばれても、嫌だった様子はなく、祖父には可愛がられたと懐かしそうに述懐したものである。

さて、私は開拓の入植者の末裔であることを普段意識することはないが、折に触れてその血筋を意識することがある。

――斎藤君はおとなしそうな顔をしているが、おもい切ったことをやる、やることが大胆だよ、西那須野の開拓の人にはそういう人が多い気がする。俺のような旧村の人間にはとてもできないことを斎藤君は平気でやるものな

 大田原市の佐久山地区生まれのある友人の言である。

 彼の祖母は佐久山城主に仕える腰元だったとのことで、要するに生粋の旧村の生まれなのだ。

 まだ二十代初めの頃のことで、それまでは私は開拓の村と旧村を比較して見るということはなかったが、彼の言以来意識するようになったのである。

 彼がいうところの私の大胆さというのは、東京消防庁に就職したのに一年で辞め、大学に入りなおして教員の免許をとり、生家から通える学校に就職したのにそれもあっさり辞めて、横浜に行って結婚したことなどを指しているようだった。

 当時はどうともおもわなかったが、東京消防庁を辞めるときも親をはじめとして何人もの人からもったいない何故やめるといわれたし、学校もなかなか入れない地区に就職出来て羨ましがられたものなのに何で、と多くの人から不審がられたものだ。

 横浜に行って結婚しても落ち着くことはなかった。学校を辞めて植木屋になろうとしたが、うまくいかず、学習塾を開いた。しかし、個人でやっているうちはよかったが、人を雇って大規模にしようとして失敗した。後でわかったことだが、私立の学校を横領でクビになった男を雇ってしまい、この男の出鱈目な教え方に苦情が殺到、アルバイトの学生には急に休まれたりもして、塾生が急減し始めた。結局始めた進学塾は二年しかつづかなかった。私は単独ならかなり能力を発揮できるのだが、人材を見極めるとか、人を使う能力、そして自身の経営力はゼロに近いと悟らざるを得なかった。

 安定が一番との妻の願いを聞き入れ、再び教師として東京都に就職した。このころから小説を書き始めた。

 今は下火であまりお目にかかることもなくなってしまったが、小説同人雑誌が隆盛の頃で、ここからプロの作家が多数巣立ったものだ。私も書き始めて間もなく、当時権威のあった文藝春秋社の文学界の同人雑誌評のベスト5のトップに2度あげられた。デビューのチャンスだったのだが、力んでしまい、そのあとがつづかなかった。二番手三番手の文学賞はいくつか貰ったが、それどまりだった。

 ちょうどその頃妻が病を得てしまい、介護に入っていかなければならなかったことも重なったのだが、しかし、それがデビューできなかった原因ではないとおもっている。要するに当時文学的な行き詰まりを打開できなかったということなのだ。

 それから約三十年がたったが、やっとというか力みがとれ、自分なりの文章が書けるようになったな、とかんじる。このブログのいくつかを読み直してみても、そうおもえるのである。

 ところで開拓者の末裔としての血を意識するようになったと書いたが、七十年余の半生は「新たなる挑戦」の連続だったとおもえるからである。

 那須野が原の開拓者は、不毛な那須野が原を切り開き、そこに新たな田畑を作り出したのである。その血筋を改めて意識したのは、十年前現在の住居に相方と同居するようになった前後である。

 当時相方所有の土地は荒れ果てていた。日々の食用に当てるための田畑はともかく、屋敷外の竹藪、雑木林、あぜ道、など雑草や篠や蔦類がはびこり、荒涼としていたのである。要するに相方一人では屋敷周辺の手入れで精一杯だったのだ。交際をはじめて間もなくの頃、彼女が刈払い機を背負って斜面を這うようにして雑草を刈っていく様に、度肝を抜かれた。

ご存知のように刈払い機はエンジンでのこぎり歯を回転させて、雑草を刈るのである。平地だって危険な作業なのだ。それが急斜面である。私は回転するのこぎり歯が何かに当たったり、バウンドしてしまわないかとハラハラしなから見守った。そして、これは何とかしてやらなければ、とおもったものである。

 その頃はまだ同居するつもりはなかったので、大田原市の自分の家から自転車で片道50分かけて通った。朝作業を始め、夕方大田原の自宅に戻る。手始めに屋敷裏手の篠がはびこる200坪ほどの角場を下刈り始めた。篠だけではなく灌木、太い蔦類などが絡み合ってジャングル化していたので、一日一二メートルしか進めない。結局そこを刈り終えるのに一ヶ月ぐらいかかってしまった。

 その途中で開拓者魂が目覚めたのだとおもう。ついでだから、全部やってしまおうと決意し、まずは丘の上にある墓所までの道の篠を刈り始めた。そう、道に篠が生え茂っていたのだから、「道なき道」になってしまっていたのだ。雑木林の下刈り、といっても篠藪と化していた山林全体を退治したといっていい。私は作業しながら、これは開拓だな、とおもった。開拓者の末裔が開拓魂に駆られて土地を開墾している、とはっきりと意識した。

 そして、篠退治を始めて二ヶ月たったころだとおもうが、大田原市から自転車で通うことをやめ、彼女の家に移り住んだのである。もう1時間半もかけて往復するのは無駄だ、と考えたのだ。

 結局土地全体をやり終えるのに半年かかった。

――これだけやるのは大変だったでしょう

 と、言った人は多い。それに対して、私は、

――大変だ、とおもえば、大変になってしまうんです、だから、私は大変だとはおもわないことにしているんです

 と応えることにしている。別の言い方をすると、大変と口にしたと同時に大変になってしまうのだ。ではどうおもい、どう口にすればいいのか。

――楽しい、嬉しい

 でもいいし、

――遣り甲斐がある

 でもいい。そうおもい、そう口にすれば、そうなるということなのだ。

 ともあれ、開拓者の末裔である私はときに開拓者魂が目を覚まし、それは「新しい挑戦」という形で発現するのである。

 私は直接的には聞いていないのだが、今年の初め頃、相方は四十代の中国人のお客さんにこう言われたのだという。

――小口さん、米野菜を作って、民宿やってるだけで、満足していたんじゃだめですよ、発想の転換をするべきです、パソコンだってスマホだって、今は一年じゃなく、半年で変わってしまう時代でしょう、私は日本に来てイオンに勤めたが辞めました、イオンにいたって、長年働いてせいぜい支店長止まりですからね、でもワタシは発想の転換をして、貿易会社を始めたのです、中国人の爆買いに目をつけました、中国人がわざわざ日本に来て爆買いをするんだから、わざわざ日本に来なくていいように、ワタシが買って中国に送って売るのです、今私はその会社の社長です、ハハハ

 なるほど、と私はおもい、その中国人に刺激を受けた。

 考えてみると、私は常に発想の転換を図ってきたようにおもう。

 キャンプ場のすぐ隣の楓林の東側に推定数千本の矢竹があるのだが、矢竹は横笛に向いているとのことだったので、横笛愛好家向けネットショップ「竹農園」をオープンしたのもそうだし、植木屋に貸していた土地を全部返してもらい、柿を100本余植えて、竹農園を柿農園に改名したのもそうだった。

 そして、閃きによって柿農園の丘の上にキャンプ場を開設したのもそうである。

 ところで旧村と開拓村との違いであるが、最近こんなことがあった。地域の役員が何らかの書類を持って訪ねてきた。この人は五十代ぐらいで、旧家の御曹司である。要するにれっきとした旧村生まれといっていいが、相方がキャンプ場の話をすると、こう言ったという。

――そうですか、そんなにお客さんが入ったのですか、しかし、都会の人はどうしてこんなとこでキャンプなんかやって楽しいんでしょうね

 要するに、この方はこの地の良さがまるで分っていないのである。自分たちが住む地の良さが分からなければキャンプに来る人達の気持ち、楽しさも、嬉しさも想像できないたろう。旧弊やしがらみに曇った旧態依然の視点でしか見られないから、この地の素晴らしい豊かな大自然の美しさに気づかないのである。当然この地でキャンプすることの意味など理解できないわけなのだ。

 こういう旧弊やしがらみにどっぷりつかっている人には、私が言うところの新しい発想も、中国人が言うような発想の転換も出来ないに違いない。

 冒頭で友人が言ったところの旧村生まれと開拓の村生まれの違いとは、前者は旧弊や田舎のしがらみにどっぷり漬かってしまっているためにそれに捉えられ身動きが出来ない、要するに自由な発想ができないのだ。それに比べて、後者は既得権益もなければ守るべきものもないので身軽で、動きやすく、新たな挑戦が出来る。皆が皆そうではないだろうが、そういう傾向があるということなのだとおもう。

 ともあれ、開拓者魂で発想した我がキャンプ場は五月の連休予想を越えた入場者で賑わい、現在夏のキャンプの季節に向けて、整備しているのだが、民宿の方にははるばるカナダから予約が入り、キャンプ場もぼちぼち予約が入り始めている。

 キャンプサイトに移植した芝も青く芽が吹き、道に蒔いた芝の種も間もなく芽吹くものとおもわれる。

 二年後ぐらいになってしまうだろうが、全面芝生の丘の上のキャンプサイトや道路をイメージしながら、農作業や整備にいそしむ毎日である。

 

2019年06月10日